ぼさたま・だらだら・日記

更新頻度の低いBlogですが、タイトルのとおり「だらだら」と続けていきます。
サッカーや音楽等々、興味の向くままの雑記ブログ。よろしければお付き合いの程を。

なしくずしの死(MORT A CREDIT)インディペンデントレーベル阿部薫このアイテムの詳細を見る


以前のエントリーに続いて、「ジャズ批評」に関する話である。この「和ジャズ」特集については、私にとって非常におもしろかったし、資料としても貴重な特集になっていると思う。「ジャズ批評」という雑誌はバックナンバーもしっかり残されているし、この先も日本ジャズ史の資料として活用されることも考えられる。
だからこそというだけではないが、細かいことも気になってくるのである。重箱の隅をつつくような話だが、以下書き連ねる。
今回は「和Jazz名盤200枚1970‐90」と題されたディスクグラフィーについてである。私もこれが読みたくて買った部分が大きいが、この中のレビューの文章を読んで「???」と思わざる得ない個所がいくつかあった。

例えば、生活向上委員会大管弦楽団「ThisIsMusicIsThis!?」の後藤誠一氏によるレビューの中にこのような一節がある。
「怖いもの聴きたさで買い求め、好んで聴いているわけではないが、資料的には重要なレコードである。」
この文章自体も???だが、まず、筆者の個人的な感想が出てくるのは、私自身は好みではない。というか、新譜のレビューならまだしも、すでに発表から数十年たっている作品に対しては、何らかの歴史的評価というものがあるものではないか。そういったことを書かずして、自分の感想などを挿入している感覚が、私にはどうもわからない。
つまり、このようなディスクグラフィーをまとめるということは、先にも書いたように、これから先においても日本ジャズ史の重要な資料になりうるものなのである。何せ、この年代の日本ジャズについて総括したものはあまりないのだから。となると、後々これを読んだ人にとっても、このレビューの内容が、アルバムに対する評価に影響を与えることもありうるだろう。
しかもこのあたりのジャズの音源は、今でも簡単に手に入るものではない。だからこそ、ここでのレビューの内容は、アルバムの内容を客観的に伝え、日本ジャズの歴史の中でどのような位置付けにあるものなのかを明確にするべきではないのか、と思うのだ。
「資料的には重要なレコード」ともあるが、後藤氏のレビューからは、何が資料的に重要なのかもよく読み取れない。「サン・ラやAECを彷彿とさせる」スタイルが?梅津和時のファンなら誰でもわかるであろうこのアルバムの歴史的意義を、きちんと書けないというのはどういうことか。
だいたい先に引用した後藤氏の文章は、読み様によっては「音楽自体は評価していないが、資料的には重要なレコード」と言っているような気さえする。もう少し日本のフリージャズに詳しい方、それこそ副島輝人氏が書いたら全然違う内容になっていたのに、と思う。

後藤氏の文章について言えば、阿部薫の「なしくずしの死」のレビューの冒頭にも「怖いもの聴きたさと好奇心で買い求めたアルバム。」という文が出てくる。よくよくこのフレーズが好きな方だ。まあその気持ちはわかるとしても「だから何?」と言いたくもなる。「音楽にエンターテイメントを求める人には騒音でしかないが、」という文章も、阿部薫の名前を知っている人には、本当に余計な一言に過ぎないと思うし、それがフリーフォームの演奏だからといって、阿部薫の音楽がごく限られた人にしか理解できないものとは私には思えない。
阿部薫の音楽の美しさは、たぶん後藤氏が思う以上に普遍的なものである。
特に阿部薫については、間章氏をはじめ優れた評論や文章があるわけだ。それらを踏まえたら余計なことは書けないと思うんですけどね。どうなんでしょうか。

あと、鈴木勲「ブロー・アップ」の平井清貴氏のレビューには、ベーシストがチェロを演奏することについて、チェロの楽器の音色が「私はあまり好きではない」ということが書かれているが、これも、平井氏がそう思うだけで余計なお世話じゃないかと思う。
ちなみに私がこのアルバムを聴いたときは、このチェロの音色がとても新鮮にきこえ、今でも印象に残っている。これこそ個人の好みの問題であって、そんなことをわざわざ書かなくたっていいじゃないか、と思うのは私だけだろうか。
平井氏の文章についてもうひとつ。武田和命「ジェントル・ノヴェンバー」のレビューの中の「コルトレーンへの挑戦状か。」という文は、このCDの山下洋輔が書いたライナーノーツにでてくるフレーズだ。引用ならばそれを明確にすべきである。知らなかったとしたらただの不勉強ですな。

とにかく、つっこみどころが多い内容のディスクグラフィーについては、選定内容にも言いたいことはいろいろある。森山威男のアルバムが複数取り上げられているが、なぜピアノレスカルテット時代のアルバムがとりあげられていないのか?中村誠一や坂田明の場合、なぜもっとストレートな演奏をしている作品を取り上げなかったのか?エレクトリック・バード・レーベルの作品がなぜないの?????などなど。

以上は、単に私の趣向と違うという点だけで、ごちゃごちゃ言っていると思われても結構。
ただし、前回のエントリーでも指摘した「どのような読者層を想定しているのか」という点と、今回上げ連ねたような一部ライターの意識の低さは、十分批判されるべき点だと思う。この問題は「ジャズについて書くこと、語ることとはどういうことなのか」という問題につながるものと思うが、これを含めていずれまとめたいと思う。
ジャズ批評 2006年 05月号 [雑誌]




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げ、音楽好きのくせに音楽関係のエントリーはこれが初めてだったとは(*_*;。
私は、音楽なら割とジャンルを問わずいろいろ聴く方であるが、このところ再びジャズを聴くことが多くなったところで、先日この雑誌を見つけて買ったんである。

●隔月刊ジャズ批評2006年5月号(131号)特集:「和ジャズ1970-90」JAPANESERAREGROOVECLASSICS 1970-90

1970-90年と言えば、私が本格的にジャズを聴きだした時期で、そのきっかけは渡辺貞夫や日野皓正などの日本のジャズだった。今その頃の作品も聴き直していて、この頃の日本ジャズについてもっと知りたいとちょうど思っていたところに「ジャズ批評」の今回の特集はまさにうってつけ!何よりディスク・グラフィーがあるのが資料としてもありがたいと、早速手にとって購入したという次第。

で、実際読み進めてみると、どうにも「違和感」が募ってきた。このような特集は最近では中々お目にかかれないし、記事の内容もおもしろいとは思うのだけれども…。1970-90年の日本のジャズシーンは、現在と比べ物にならないほどの熱気を持っていたと私は感じていたのだが、その「熱気」が、どうもこの雑誌の特集からは伝わってこないような気がしたのだ。
これは単なる個人的な感想に過ぎない。ただ注意深く読んでいくと、どうもツッコミを入れたくなるような部分がいろいろ出てきてしまった。そこで、今回の「ジャズ批評」の特集に、いろいろツッコミを入れながら、しばらく日本のジャズについて自分なりに語ってみることにしたい。

最初に問いたいのは、この特集における「和ジャズ」の定義、もしくはこの特集の編集方針についてだ。
特集冒頭の「和ジャズ1970〜80年代への思い」という後藤誠一氏の文章の最初に、
「和ジャズの70〜80年代は50〜60年代の基礎の上に、外国との交流もさかんとなった時期であり、フュージョン旋風に巻き込まれながらもジャパニーズ4ビート・ジャズは崩壊することなく、脈々とその存在を主張しながら、90年代から現代に連なる次世代への橋渡しをしてきた。」
とある。
この文章からすると、今回の特集は、いわゆる日本のジャズ「和ジャズ」の中でもいわゆる正統派の4ビート・ジャズを中心に考えていると読み取れるように私は思う。
実際にはディスク・グラフィーの中でも、その他の記事でもフュージョンやフリージャズ等も網羅されているわけではあるが、やはり中心は正統派4ビート・ジャズについての特集なのだという印象を受けるのは、それ以外のジャズに関する語り口がどうにも弱いような気がするからだ。
それならば、そういった正統派ジャズのみに特集の焦点を絞った方がより深い内容になったのではないか、と思うわけだ。逆に私個人の好み及び主観からすると、この時代の日本のジャズシーン全体について語るなら、特にフュージョンブームとフリージャズシーンについては絶対はずせない内容であり、女性ボーカルブームなども併せて、日本ジャズ全体の活性化にもつながったと考える。あと語り口としてはずせないのは、60年代後半〜70年代〜80年代にかけて、日本人ならではのオリジナリティあるジャズが生まれてきた背景として、彼らの活動のベースとなったジャズ喫茶やライブハウスの活動がもっと取り上げられてもよいと思う。「ピットイン」は確かに象徴的な存在ではあるが、そのベースなしに日本のジャズの発展はなかったわけなのだから。

以上が、私が感じた「違和感」の主な原因だ。特集の内容の焦点が絞りきれていないがために、特集自体の意図が見えにくくなっている、よってこの時代の熱気も伝えきれていないと感じるのだ。
焦点が絞りきれていないという点については、この特集がどのような読者層を対象に組まれたのか、または記事が書かれているのかという点もかなり気になったが、それについてはまた次回書くことにしたい。